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当社創業の祖である清水五一郎は明治44年7月3日、京都府伏見のうどん屋の長男として生まれ、大正13年3月、伏見第一尋常高等小学校を卒業後、東京本所の鋼材商浜本鉄店に入店した。
昭和12年12月23日に個人経営の清水商店を独立開業、男子一生の仕事は物を製造することにありと信じ、13年に船堀鍛工所を起こす。 清水商店は24年7月に墨田区亀沢に移り、旧日本橋本社の土地を処分した資金を投じ、江戸川区逆井(現平井)にスクラップ加工工場を建設、31年3月には江戸川区船堀に清水鍛造を起こす。 のちに清水商店(改称清水鋼鐵)と合併して清水鋼鐵東京工場となる。 45年6月に北海道苫小牧市に清水製鋼を設立、翌年6月に30t電気炉製鋼工場の操業を開始、58年10月に清水鋼鐵と合併し清水鋼鐵苫小牧製鋼所となる。 また60年に圧延設備を新設し、長年の夢であった製鋼圧延一貫工場を実現する。 東京工場は地下鉄開設決定や周辺の住宅化が進み、環境問題に配慮して宇都宮へ移転を決定、57年8月に2,000tプレスを導入、新鋭鍛造工場・機械工場を建設し清水鋼鐵宇都宮製作所となる。 |
浜本鉄店勤務時代に「江東鉄友会」と称し業界青年親睦機関の幹部として活躍したのが始まりで、28年に本所鉄交会の副会長に就任して以来、企画と推進の先頭にたち、
その行動力は「ブルドーザー」の異名をとった。30年以降、本所鉄交会館建設、東京鉄鋼販売業連合会の設立、浦安鐵鋼団地建設、全国鉄鋼販売業連合会の設立に参画、
その中でも最も心血を注いだのは浦安鐵鋼団地の建設であった。 昭和30年代半ば、日本の鉄鋼メーカーは一斉に大量生産を開始した。こうした時代の流れをいち早く読み、新天地・浦安の埋立地に鉄鋼団地の造成を決意する。37年11月、都内の同業約200社を とりまとめて東鉄連浦安団地協同組合(浦安鐵鋼団地協同組合)を結成。専務理事に就任。実質的なリーダーとして千葉県庁、浦安町役場など関係機関への交渉に没頭した。 その回数は400回以上に及ぶ。その間、様々な困苦に直面したが持ち前のバイタリティーで克服。総面積33万坪、企業数219社、従業員総数5,000名、世界最大の浦安鐵鋼団地を完成させた。 何にでも夢中になる性格から、様々な趣味も持っていた。浜本鉄店時代には同じ鉄屋で働く仲間を集めて「穂高山岳会」を結成し、よく山登りに出掛けた。 昭和7年7月に穂高山へ単独登山に挑戦したが、山に迷い1週間閉じ込められたり、まだあまり知られていない時代にスキーに行き足を骨折、戦後は釣りに夢中になり、 江戸川や木更津に釣船を4隻持ち、四季折々の釣りを楽しんだ。 昭和43年に自宅を墨田区亀沢から千葉県市川市へ転居してからは盆栽いじりを趣味とし、春夏秋冬、植木の生育とともに喜び、 また時に枯らせてしまい心を痛めた。 この趣味の中から「不屈の精神」、「丹精」、「忍耐」を学び、その時々の年齢、体力に応じて自ずとやれるものが決まってくると述べている。 著書『凡夫生涯鐵一筋』のタイトルのとおり、鐵一筋に生き、鐵を天職とした生涯であった。また何にでも熱中し、その中から様々なことを学び、実践した人物であった。 |
足 跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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団体公職暦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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褒章・叙勲 | ||||||||
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語 録 | ||||||||
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一言でいえば、思いやりにあふれた眩しい足跡ではないでしょうか。鉄鋼業界への女性進出は今では珍しくありませんが、範子会長はパイオニア的存在でした。 平成22年5月、浦安鐵鋼団地組合の5代目理事長に就任。平成23年3月11日の東日本大震災では多くの組合員企業が被災したが、 組合代表として千葉県企業庁や浦安市に陳情し、早期復旧・復興に全力で取り組む一方、復旧に苦労された組合員の従業員を労って、 野外での大昼食会「ランチde元気」を開催し、大盛況を得ました。また、平成25年11月には団地創立50周年記念式典を開催。 流通と供給メーカーとしての立場の双方を理解し、業界全体の調和を常に重んじる人でした。 お酒を飲めばとても陽気で周囲を楽しくさせ、カラオケも絶品でプロ並みの歌唱力。 闘病を続けながら、苦しさは微塵も感じさせず、誰に対しても思いやりの笑顔を絶やさない優しい人でした。 |
足 跡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
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団体公職暦 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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